京菓子の歴史と知識

 

はじめに
 お菓子はただ美味しい、美しいと感じるだけでなく、色々な知識、または興味が無いと、お菓子を楽しみながら製造や販売はできません。亀屋清永は代々伝わる、伝統の技術、伝統の味、そして品格のあるサービスをとても大事にしています。


 しかし、時代とともに人々の気分や興味は変わっていくのですから、16代会長が常々口にしている「温故知新」、古きを温めて、新しいものを作っていくことを大事とします。そして、お互いに素直な気持ちでコミュニケーションを図ることを大事とし、従業員の皆様、お客様に愛されるお店つくりを目指していきたいと願っております。


 

京菓子の歴史
 京菓子の歴史は日本の菓子の歴史でもある。
菓子はその文字が語るように、そもそもは木の実や草の実。
ちなみに、我国の菓祖神は、第11代垂仁天皇に仕えた田道間守(たじまもり)と伝えられている。病気の天皇のため、不老不死の霊薬として常世の国(中国の南部からインド)から非時香菓(ときじくのかくのこのみ)(当社のショッピングバックにもある 橘)を9年の歳月を要して持ち帰ったという伝説によるもの。


 その後、奈良時代には仏教の伝来とともに、米や麦、大豆当の穀物を材料にした唐の菓子「唐果物(からくだもの)」が、遣唐使によって伝えられる。(代表銘菓 清浄歓喜団も含まれる。これがお菓子のルーツである。)
団子や餅を塩味で整え、油で揚げた唐菓子は、神仏へのお供え物として、あるいは貴族たちの饗宴に食された、極めて儀式性の高い菓子。現在も、神社や寺院の神饌(しんせん)や共饌(きょうせん)としてその面影をとどめている。
今日の和菓子の原型というべきは、鎌倉時代に禅宗(道元、栄西)とともに伝わった、点心や茶の子ではないだろうか。
 饅頭、羊羹の原型は、中国の饅頭(まんとう)と呼ばれ、伝わった頃は、獣の肉が入った、今で言う肉まんのようなものや、羊や亀などの肉をいれた羹(あつもの)。つまり、汁物だったのです。これが点心と呼ばれる軽食で、その後、茶を喫します。殺生戒の禅宗では、羊の肉の代わりに、植物性の食品を使ってよく似たものを工夫しました。饅頭、うどん、そうめんなどとともに、禅宗の点心として始まった。この時、餅や、果物、昆布等が供された。茶うけの食べ物、茶の子である。禅宗における喫茶の習慣が茶の湯として我国独特の「芸能」から「道」へ発展していく過程で、茶の子である菓子もまた、茶席の取り合わせを担う、重要な要素となっていった。
 砂糖が我国に伝来したのは奈良時代(754年)。唐招提寺を建立した、唐の鑑真が薬として石密(砂糖の開祖だといわれる)を天皇に献上したのが始まりという。


 その後、室町時代に中国から輸入されるようになったとはいえ、砂糖を口に出来るのは、貴族や将軍など、高貴な人々だけであった。
菓子が甘くなっていくのは、16世紀中頃にポルトガル、イスパニアの宣教師が伝えたボーロやコンペイト、カステイラ、アルヘイ糖等の南蛮菓子の出現以来で、この頃から、菓子は砂糖を材料として、次第にその味が甘く変わっていった。安土桃山時代には千利休により茶の湯も盛んになり菓子の発展に大いなる影響を及ぼしたのである。そして、町人文化が興隆を極める江戸時代。菓子は時代の豊かさを象徴するように飛躍的な発展を遂げる。「京菓子」の名もこの頃に生まれたもの。

 

 その理由は有職故実(昔の朝廷や武家の法令、行事、習慣などを研究する学問)にのっとり、和歌や俳諧などに取材してつくる京菓子を守るため、幕府は安西4年上菓子司を248軒に制限したこと。また、禁裏御用達の上菓子司(当社含む)をわずか28軒にのみ許したことによるもので、これによって、菓子の本場は京都であるとの聞こえが高まった、尚、その28軒は「京菓子司」と呼ばれた。
 独自の京菓子が誕生する際、平安京とその周辺の地域が持っていた、山紫水明、四季の移り変わりの微妙な変化の環境が大きな意味を持っていた。穀種、小豆、寒天など、良質の材料と良質の水に恵まれていた。しかも、砂糖が直輸入されたということは特筆されるべきである。
 維新後の京の町は東京遷都により、明治、大正、昭和へと古来の京菓子に外来文化を結びつけ、第二次世界大戦による製造の中断もあったが温故知新の努力を重ねて今日の隆盛を見るに至ったものであります。 

 

 

 

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